内田樹講演会「だからいま、本を読む」@有明ビックサイト
東京国際ブックフェアのVIP特典で申し込んでいた。
60分、というのはいささか勿体ない(90分は欲しい)が、
内容が濃密だったので、聴きごたえがあった。
備忘録としてメモをまとめておく。
※必ずしも、一字一句がおなじではない。
●「だからいま、本を読む」というタイトルにあるように
現代人は本を読まなくなった→だから読まなきゃいけないよ
●しかし、「だから」に相当する理由づけが必要である。
●責任の一端はamazonにもある→オンデマンドで本が届く
キンドルに至っては即時にダウンロードできる
●ドイツに行ったときに現地の研究者と話しをした際、
アメリカのマルクス研究についての話があり、
ホテルに戻って検索したら、キンドルで購入できた。
→以前は、注文して為替を送って3か月はかかるものが
3時間で済むようになり、研究環境は劇的に変わった。
●にもかかわらず、日本の研究状況はひどくなっている
本日発表されたハイヤー&エデュケーションの大学ランキングで
東大・阪大ともランクを下げた。
2004年以来、坂道を転げ落ちるような状況だ。
●日本の学術的アウトカムは劣化している。
10万人あたりの論文提出数はOECD諸国最下位。
しかしそんなことはメディアに報道されない。
●日本の研究環境が「成果主義」「数値目標」が重視され、
外形的に成果を示せるエビデンスを求められている。
それ以来、腐り続けている。
●書籍においても上記と同じようなことが言える。
●本には「商品としての書籍」と「商品性の低い書籍」がある。
●「商品としての書籍」は本を読む前に何が得られるか
あらかじめわかる内容のものになる。いわば「実用書」の類。
つまり、商品スペック(有用性・価値)が全面的に開示されていて、
使用者(購入者)が事前に要求できる。
●「商品としての書籍」は個人的には本と認めていない。モノだ。
●「商品としての書籍」は読後、その人自身が全く変化しない。
→読んでも人間的に変化しない加算されるだけ
→美意識や死生観?が変わるわけではない。
●「商品としての書籍」においては購入前・購入後とも
同一人物でないといけない→つまりは変わらない
●あらかじめ価値観が共有できるものを買う
これは商品購入→無時間モデルでもある。
●つまりは外付けするだけで中は変化しない
→アプリが加わるだけ
●一方、「商品性の低い書籍」は食べ物・教育・医療と同じく
供給が足りていれば商品と認識されないが、一たび断たれたら
奪い合うものになる。
●「商品性の低い書籍」の中に「知性の発動」がある
→最近ではそれがなくなり、商品だけになる→反知性主義
●「商品性の低い書籍」で得られる「知性に発動」とは
手持ちの価値観や度量性を超えて引き込まれる(拉致される)
狭い穴からすうっと飛び出し、「他社の身体」で世界を見る
●本を読むのが遅いとき、「今の自分」が読んでいる
→今の自分から離れて本の中に吸い込まれると早くなる
本をどんどん読めるようになる。
●この「他者への憑依能力」は子供の頃が一番良い。
すがりつくように読むことができる。その後に読書家になれる。
●一方で二十あたりから読む人は、なるほど良く読んでいるが、
共感力が低い
●内田氏は、小さいころ父親から少年文学全集(50巻くらい)を
毎月読むよう厳命された。兄は早々にあきらめたが、
本人は続けた。最初の一冊はひと月半かかったが、
次第に引き込まれるようになり、早く読めるようになった。
→その後の読書家になるきっかけになった
●なかでも「若草物語」は浮遊感を覚えるほど引き込まれた
筋書やセリフが分かり、中にいる人物になりきれた。
この本は女性の姉妹が主人公で、男が女性の心を意識できることが、
のちの感受性?につながった。
●以前流行った「冬ソナ」は男はとかくペ・ヨンジュンの立場で見るが、
そうじゃない、チェ・ジウの視線でみるのが良いんだ、と。
●ちなみに茂木健一郎のそれは「赤毛のアン」だそうだ。
●女性が主人公以外でよかったのはケストナー「飛ぶ教室」だった
●「ハリー・ポッター」が全世界で人気だが、
ポグワースにある大学は何を教えるか分からないという設定が良い。
●主人公は何も知らずにわくわくしている、のが良い。
相手役の女の子が色々講釈する、あれがダメだ。
●全世界でウケる、ということはそれだけ全世界で教育が崩壊してる?
●大学というのはまさにポグワースの大学のように
何を学ぶのかまったくわからないものが良い。
●本来の教育とは、全く知らない世界に誘(いざな)われるもので
そこにときめきや好奇心、人間としての興奮があり、
もっと学び、成長するもの→新しい「ものさし」を見つけて得る
それが「知性の発動」というもの
●生徒=消費者となったら教育はおしまい
しかし、今や子供でも分かる価値をアナウンスすることしか
大学は許されない。
●約700の大学で学則変更があったことは知られていない
教授会は決定権がなくなり、諮問機関となってしまい、
学長に権限が集中することになった。いわゆるトップダウンになった。
つまりは株式会社化である。
●独裁者ができると必ず失敗する。
なぜなら自己評価が高まると、イエスマンしか置かなくなり、
異論を挟むものを切っていくことになる。
そして独裁者はイエスマンであることを気づかなくなる。
●小学校で英語を導入するが、これが新しい価値観を得るために必要であれば
賛成だが、実際は違うので反対
●英語は教科教育の中で、唯一数値化できる。(TOEFL・TOEIC)
●企業においても実用性や価値観ではなく、数値化に利用される
●つまりそういうことがグローバル化で、「外部の価値観」をなくすことである。
●現代の問題は、外部の価値観に対するさわやかさやあこがれが抑圧されている。
●日本は、よほど大きな「価値観の転換」がないとダメになる。
●もちろん、ダメになっても人々の生活は続く。
→「だからいま、本を読みましょう」という着地(会場爆笑)
60分、というのはいささか勿体ない(90分は欲しい)が、
内容が濃密だったので、聴きごたえがあった。
備忘録としてメモをまとめておく。
※必ずしも、一字一句がおなじではない。
●「だからいま、本を読む」というタイトルにあるように
現代人は本を読まなくなった→だから読まなきゃいけないよ
●しかし、「だから」に相当する理由づけが必要である。
●責任の一端はamazonにもある→オンデマンドで本が届く
キンドルに至っては即時にダウンロードできる
●ドイツに行ったときに現地の研究者と話しをした際、
アメリカのマルクス研究についての話があり、
ホテルに戻って検索したら、キンドルで購入できた。
→以前は、注文して為替を送って3か月はかかるものが
3時間で済むようになり、研究環境は劇的に変わった。
●にもかかわらず、日本の研究状況はひどくなっている
本日発表されたハイヤー&エデュケーションの大学ランキングで
東大・阪大ともランクを下げた。
2004年以来、坂道を転げ落ちるような状況だ。
●日本の学術的アウトカムは劣化している。
10万人あたりの論文提出数はOECD諸国最下位。
しかしそんなことはメディアに報道されない。
●日本の研究環境が「成果主義」「数値目標」が重視され、
外形的に成果を示せるエビデンスを求められている。
それ以来、腐り続けている。
●書籍においても上記と同じようなことが言える。
●本には「商品としての書籍」と「商品性の低い書籍」がある。
●「商品としての書籍」は本を読む前に何が得られるか
あらかじめわかる内容のものになる。いわば「実用書」の類。
つまり、商品スペック(有用性・価値)が全面的に開示されていて、
使用者(購入者)が事前に要求できる。
●「商品としての書籍」は個人的には本と認めていない。モノだ。
●「商品としての書籍」は読後、その人自身が全く変化しない。
→読んでも人間的に変化しない加算されるだけ
→美意識や死生観?が変わるわけではない。
●「商品としての書籍」においては購入前・購入後とも
同一人物でないといけない→つまりは変わらない
●あらかじめ価値観が共有できるものを買う
これは商品購入→無時間モデルでもある。
●つまりは外付けするだけで中は変化しない
→アプリが加わるだけ
●一方、「商品性の低い書籍」は食べ物・教育・医療と同じく
供給が足りていれば商品と認識されないが、一たび断たれたら
奪い合うものになる。
●「商品性の低い書籍」の中に「知性の発動」がある
→最近ではそれがなくなり、商品だけになる→反知性主義
●「商品性の低い書籍」で得られる「知性に発動」とは
手持ちの価値観や度量性を超えて引き込まれる(拉致される)
狭い穴からすうっと飛び出し、「他社の身体」で世界を見る
●本を読むのが遅いとき、「今の自分」が読んでいる
→今の自分から離れて本の中に吸い込まれると早くなる
本をどんどん読めるようになる。
●この「他者への憑依能力」は子供の頃が一番良い。
すがりつくように読むことができる。その後に読書家になれる。
●一方で二十あたりから読む人は、なるほど良く読んでいるが、
共感力が低い
●内田氏は、小さいころ父親から少年文学全集(50巻くらい)を
毎月読むよう厳命された。兄は早々にあきらめたが、
本人は続けた。最初の一冊はひと月半かかったが、
次第に引き込まれるようになり、早く読めるようになった。
→その後の読書家になるきっかけになった
●なかでも「若草物語」は浮遊感を覚えるほど引き込まれた
筋書やセリフが分かり、中にいる人物になりきれた。
この本は女性の姉妹が主人公で、男が女性の心を意識できることが、
のちの感受性?につながった。
●以前流行った「冬ソナ」は男はとかくペ・ヨンジュンの立場で見るが、
そうじゃない、チェ・ジウの視線でみるのが良いんだ、と。
●ちなみに茂木健一郎のそれは「赤毛のアン」だそうだ。
●女性が主人公以外でよかったのはケストナー「飛ぶ教室」だった
●「ハリー・ポッター」が全世界で人気だが、
ポグワースにある大学は何を教えるか分からないという設定が良い。
●主人公は何も知らずにわくわくしている、のが良い。
相手役の女の子が色々講釈する、あれがダメだ。
●全世界でウケる、ということはそれだけ全世界で教育が崩壊してる?
●大学というのはまさにポグワースの大学のように
何を学ぶのかまったくわからないものが良い。
●本来の教育とは、全く知らない世界に誘(いざな)われるもので
そこにときめきや好奇心、人間としての興奮があり、
もっと学び、成長するもの→新しい「ものさし」を見つけて得る
それが「知性の発動」というもの
●生徒=消費者となったら教育はおしまい
しかし、今や子供でも分かる価値をアナウンスすることしか
大学は許されない。
●約700の大学で学則変更があったことは知られていない
教授会は決定権がなくなり、諮問機関となってしまい、
学長に権限が集中することになった。いわゆるトップダウンになった。
つまりは株式会社化である。
●独裁者ができると必ず失敗する。
なぜなら自己評価が高まると、イエスマンしか置かなくなり、
異論を挟むものを切っていくことになる。
そして独裁者はイエスマンであることを気づかなくなる。
●小学校で英語を導入するが、これが新しい価値観を得るために必要であれば
賛成だが、実際は違うので反対
●英語は教科教育の中で、唯一数値化できる。(TOEFL・TOEIC)
●企業においても実用性や価値観ではなく、数値化に利用される
●つまりそういうことがグローバル化で、「外部の価値観」をなくすことである。
●現代の問題は、外部の価値観に対するさわやかさやあこがれが抑圧されている。
●日本は、よほど大きな「価値観の転換」がないとダメになる。
●もちろん、ダメになっても人々の生活は続く。
→「だからいま、本を読みましょう」という着地(会場爆笑)