花鳥風月記

流れる水に文字を書く

ドゥチュイムニイ考 ― 佐渡山豊

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昨日、あるトークショーで沖縄とキューバの話を聞く機会があった。
沖縄はかれこれ10年程前に1週間かけて本島を回った。
確か県民投票や選挙で話題となっていた時期だった。
その後、とあるきっかけで、
佐渡山豊というフォークシンガーを知る。
『ドゥチュイムニイ(独り言)』はウチナーグチで歌われた
メッセージの強い唄だった。
当時、その唄を聴きながら感じたメモがあったので、
以下に書き留める。

ドゥチュイムニイ考
ドゥチュイムニイとは「独り言」
「独り言」をみんなに聞いてもらうってどういうことなんだろう。
また何十年も「独り言」を歌い続けるのはどうしてなんだろう。

「独り言」をみんなに聞いてもらうこと。
それは、聞かなくてもいい、といいながら聞いて欲しい、という矛盾したこころ。
その「こころ」を持つ人間の弱さと甘え。
聞かなくてもいいけど、誰か聞いてくれたら、といった淡い期待。
その「期待」のしめす絶望的な現状と一縷の望み。
聞かなくてもいい、といいながら実は聞かせようとする確信犯。
その「確信犯」の抱える人間の欲と懲りない性分。

何十年も「独り言」を歌い続けること。
それは、聞かなくてもいい、といいながら聞いて欲しい、という矛盾したこころ。
その「こころ」がしめす人間の「しぶとさ」と「こだわり」
聞かなくてもいいけど、誰か聞いてくれたら、といった淡い期待。
その「期待」のしめす恒常的な絶望と一縷の望み。
聞かなくてもいい、といいながら実は聞かせようとする確信犯。
その「確信犯」の抱える「したたかさ」と粘着質。

当時と比べ、「粘着質」ということばが、ネット社会の通弊で意味が変わり、
何かネガティブな表現になってしまう感もあるが、独り言をメッセージとする
伝える立場の心境を察して書いたのだと思う。